魔王はすでに勝っていた

第一話:魔王は、すでに勝っていた
世界が滅びかけているというのに、人々はまだ「いつか誰かが何とかしてくれる」と思っていた。
空は灰色に濁り、太陽は薄い布越しのように弱々しく光っている。大地には亀裂が走り、かつて緑に覆われていた平原は、今や魔物の巣となっていた。
魔王が復活してから、すでに十年。
その事実を、人々は正しく理解していなかった。
「魔王は、まだ倒されていないだけだ」
誰もがそう思っていた。
だが、違う。
魔王は――もう勝っていた。
勇者が現れなかったわけではない。
これまでに七人の勇者が選ばれ、剣を取り、仲間を集め、旅に出た。
そして七人全員が、帰ってこなかった。
それでも人々は希望を捨てない。
次こそは、と。
次の勇者なら、と。
まるでガチャを回すように、運命に期待し続けていた。
「……また、勇者が死んだってさ」
酒場の隅で、少年はそう呟いた。
名はレオン。
年齢は十八。
職業――なし。
彼は勇者でもなければ、剣士でも、魔法使いでもない。
ステータスも、才能も、運命も、すべてが平均以下だった。
いや、正確に言えば――
勇者になれなかった男だ。
レオンはかつて、神殿で行われる「勇者選定の儀」に参加したことがある。
神の光が降り注ぎ、選ばれし者の額に紋章が浮かび上がる。
それが勇者の証。
だが、レオンの額には何も現れなかった。
代わりに神官が首を傾げ、困ったように言った。
「……スキルは、ありますね」
「本当ですか!」
一瞬、希望が灯った。
だが次の瞬間、神官は気まずそうに続けた。
「スキル名は……《複利》」
沈黙。
周囲の人々がざわつき、やがて失笑が漏れた。
「金貸しかよ」 「商人向けだな」 「魔王討伐に何の役に立つ?」
レオン自身も、意味が分からなかった。
《複利》
毎日少しずつ、力が増える。
ただし増加量は、極めて微量。
剣の一振りが強くなるわけでもない。
魔法を覚えるわけでもない。
ただ、「積み重なる」だけ。
あまりにも地味で、即効性がなかった。
その日、レオンは勇者になれなかった。
「結局さ……才能だよな」
酒場で、レオンはぬるくなった酒を口にする。
隣の男が鼻で笑った。
「当たり前だろ。魔王を倒すのは“選ばれた存在”だ。凡人が出しゃばるな」
凡人。
その言葉は、胸に刺さった。
夜、村へ帰る途中。
空気が異様に重くなった。
遠くで、鐘が鳴る。
「……警鐘?」
次の瞬間、大地が揺れた。
炎が上がる。
悲鳴が聞こえる。
魔物の襲撃だった。
レオンは走った。
逃げるためではない。
誰かを助けるためでもない。
ただ、何かをしなければならないという衝動に突き動かされていた。
だが現実は残酷だった。
剣を振っても、魔物の皮膚をかすめるだけ。
魔法は使えない。
体力も、筋力も、足りない。
目の前で、幼なじみの少女が倒れた。
「レオン……ごめん……」
彼女の声は、途中で途切れた。
その瞬間、何かが壊れた。
村は一夜にして滅びた。
生き残ったのは、レオン一人。
瓦礫の中で、彼は空を見上げた。
灰色の空。
希望のない世界。
「……魔王は、強いな」
誰に向けた言葉でもなかった。
その時、頭の中に、神殿で聞いたスキルの説明が蘇る。
《複利》
毎日、ほんのわずかずつ、力が増える。
「……毎日?」
レオンは、立ち上がった。
剣を拾う。
重い。
だが、振る。
一回。
二回。
百回。
腕が悲鳴を上げる。
体が限界を訴える。
それでも振る。
「今日、0.1%強くなればいい」
誰も期待していない。
誰も信じていない。
だからこそ――
「俺が、やるしかない」
魔王は、すでに勝っている。
だが。
それでも立ち上がる者が、一人いる限り。
物語は、まだ終わらない。

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